このタイトルを見た者は一ヶ月後「あひゃああああああああああんwwwwww」と言いながら夢精する

作品集: 最新 投稿日時: 2014/05/28 21:26:27 更新日時: 2014/07/02 20:59:52 評価: 6/6 POINT: 43 Rate: 1.94
 窓の向こうから聞こえてくる声に起こされたが、朝と言うには少々遅すぎる時間だった。電池切れを起こした目覚ましは午前四時を差したまま止まっていて、興味のない名前を繰り返す選挙カーは、信号待ちなのか離れていく様子もない。
 手に取った携帯のディスプレイが正常ならば、約束の時間を三十分も過ぎていることになる。
「あー」
 まだ眠たさの取れない頭はくしゃくしゃだったが、寝癖がなかっただけましな方だ。洗面所に向かって歯ブラシを含んだまま着替えたら、口の中をさっぱりさせた。
 顔は濯ぐだけですませ、梳き終わった髪の左側を結って家を出た。一階に着くとそばかすおばさんが居て、相変わらず関係ないうちのアパートのゴミ捨てチェックをしているようだった。十軒以上離れたところなのにご苦労なこった。
 溜息を気付かれて睨んでくるが、ガンたれるだけでなにも言ってこないのはわかっているし、こちらも急ぎだ。背中に突き刺さる視線など、降り注ぐ日差しに比べれば屁でもない。
 住宅街を抜けると一気に排気臭くなって、排気熱が溶ける空気はいつもよりも生ぬるくて、気持ちよくないしおいしくもない。
 信号待ちの間に確認した時刻は十一時半を過ぎていた。図書館に着くのは十二時を回った頃だろう。
 バッグにしまう前に確認してみても着信はなくて、駅の改札辺りで待ちぼうけしている姿が目に浮かんだ。
「まあ怒りはしないだろうけど」
 青に変わって流れはじめるメロディーは歩いていると鈍くさくなって、渡りきってから振り返ると、子供がスピーカー部分を塞いでなんどもプッシュしていた。
 歩調は無意識に速くなっていたらしく、駅に着き、ホームの時計を見上げてみると、普段は十五分かかる道を半分も短縮していた。あまり信号に引っかからなかったのも幸いだ。電光掲示板のアナウンスが電車の到着を知らせていて、具合よく乗り付けれるのはラッキーだった。線路の先からゆっくり迫ってくる電車が止まって、さあどうぞとエアーを抜きながら扉を開けた。
 時間帯の割には人は多かったが、乗り込んだ車両の席は結構空いていた。リーマンが駆け込み乗車を決めたけど、すぐにスペースが埋まってしまうのは、乗降が多い駅の宿命だろう。一縷の望みに賭ける様子で車両移動する後ろ姿は、なんとも哀れに見えた。
 動きはじめた景色は六月らしくない快晴で、冷房の効いている車内からは正直出たくないが、乗っている電車は急行だ。揺られている時間は十分もない。
 心地いい時間はすぐに終わって、電車はN駅に止まった。エスカレーターに向かう途中のベンチで、見慣れた顔が欠伸を掻いていた。後ろから近付いてナイトキャップもどきを摘み上げてやった。
「おっはー」
「今度の遅刻はUFOキャッチャーが原因なのかしら、常習犯さん」
 首を反り返している顔に突っ込み代わりと帽子を落とした。むくれる様子もなく帽子を被り直したメリーは、行こっかとにこやかに立ち上がる。
 エスカレーターを降りて、改札をくぐった。そう言えばさと切り出されて反応すると、ご飯まだだよねと笑みを向けてきた。
「用事が済んだら食べるでしょ」
「うん、K駅の中にできたフレンチよね」
「そうよ、ご馳走様、蓮子」
「え、ひょっとして怒ってる?」
「やだもう忘れたの? 次待たせたら奢るって言ったの蓮子じゃない」
 あ、そうだった。過去の私はなんて余計なことを言ってくれたのだろうか、いや自分だけどさ。
 確実に減ったであろうお茶の機会を嘆いている間に、図書館は目と鼻の先に見えていた。道路を挟むようにある信号が二つとも赤だったから、曲がってくる車のない間に早歩きで渡った。
 入口を抜けて地下に降りる途中、どうなったかなと二人して浮かれていた。オカルト掲示板に書き込まれていた体験談で、T図書館の地下にある歴史区画の書棚が、今日の目的だった。そこへ人型に切った紙を入れて一週間誰にも見つからないでいると、作った本人の名前が血文字で浮かび上がり、正しい払方をしなければ呪われると言うのだ。
「どっちのかが生き残っていればいいんだけど」
 そうだねと拾ったメリーが先陣を切って、書棚を漁りはじめた。私も隠したところの雑誌を退けて確認したが、隠したはずの紙人形はなくなっていた。
 落胆することはなくもやはり残念な気持ちだ。顔を横に振ってみると、メリーは紙人形を手に明るくさせていたが、ひらりと見せられた人形には折り目しかついていなかった。
 ネットの怪談なんて創作が殆どだし、実際はこんなものなのだろう。紙人形を折り畳むメリーは、からかさお化けよろしく「残念」と舌を出した。
「あっさり終わっちゃったね。――今から行くと込んでそうだし、予約入れとく?」
「どっちでも、任せるよ。ついでだから資料見てもいい?」
「うん、じゃあ私も」
 分かれて、私は工学の区画に移動したが、これと言った掘り出し物はありそうにない。背表紙に当てた指を流していくと、明らかにジャンル外であろう本が無造作に収められていて、なんとなしに引き抜いた。
「なんじゃこりゃ」
「なにが?」
 傾けていた本は目を向けた際に起こして、あほみたいなタイトルは見られないよう胸に引き寄せた。選んだ本が気になって、胸元に目を落とす。交差させる腕の中に抱えている数冊は、なんともメリーらしくないチョイスだった。
「絵本なんて珍しいわね」
「こういうものから見えてくる心もあるのよ」
 相対性精神学なんて小難しい分野を専攻してるその人が言うのだから、まあそうなのだろう。私にはわからないが。
 決まったのと確認されてつい頷いてしまうが、これをカウンターに持っていくのかと考えたら恥ずかしさが込み上げてきそうだった。
 一階に戻り図書カードの作成を済ませてから、受付に本を差し出した。裏向けて渡すという努力も虚しく、キーボードを叩きながらひっくり返されてしまう。タイトルを確認するために手が止まっているのだとしても、口を半開きにさせている様は、なんとも微妙な反応をされているみたいでやはり恥ずかしかった。
 本屋でエロ本を買う男の気持ちを(羞恥や躊躇いがあるのかはさておき)体験できてから、図書館を出た。
 自動ドアを抜けてから肩をつつかれて、借りてきた絵本を差し出された。受け取るとメリーはハンドバッグを漁りはじめて、黒柄のポーチを取り出した。
「じゃーん、エコバッグ」
「絵本入りそう?」
「結構大きいから平気」
 ここからK駅までは歩いて十分ほどだ。次はどのオカルト情報を試そうかと交わしながら過ぎる町並みは、一週間前に来た時と変わらない様子で、私達二人を見下ろしている。
 歩道に沿ってぽつぽつとある並木は、季節の変わり目でもない限り色を変えないし、人通りだってシーズンを過ぎているから面白味のない同じ市に住む人間で溢れている。横道に逸らした視線には猫がいるだけで不思議なんて転がってやしない。
 見えてきた駅ビルの中に待っているのはフレンチで、都市伝説などという怪しげな料理は出てこないだろう。胸に潜んでいる好奇心が良質なオカルトを求めていても、私が腹に入れるのは、オープンを知らせる広告に乗っていた鮮魚のポワレのタプナード添えだ。
 自動ドアをくぐり、エスカレーターを下ったすぐそこに店はあった。ガラス越しの店内はランチタイムなのに落ち着いていて、待っている人もいなかった。
 予約を入れてなかったから、入ってすぐ席に通されたのはありがたかった。忘れていたはずの空腹は、窓際の席から見えた不二家の前に立つペコちゃん状態だ、早く食べたい。
 メニューを開いたメリーが選んだのは、国産牛ヒレ肉のロースト赤ワインソースだそう。肉料理の覧に目が落ちる。
「千円落ちのイベリコにしませんか、メリーさん」
「デザートはミルフィーユに決定ね、ありがとう蓮子」
 まったくもって財布に優しくない相方だ。

      *

 エンドクレジットが流れはじめて、静かだった館内の空気が軽くなる。感想を漏らす人達もいればさっさと帰っていく人もいて、うちらも帰ろうかと言って立ち上がった。
 明るい通路に出るとメリーが欠伸をしたので、「つまらなかった?」と聞いた。
「ううん、面白かったわ。立て続けに見たからちょっと疲れただけよ」
 私は一本目のミュージカルアニメの方が好みだったけど、今終わった時代映画の方が、メリーは良かったと話す。外人からしてみれば日本らしい奥ゆかしさはあるかもしれなかったが、個人的には少々地味な印象だ。
 袖口を少しだけめくり、時間を確認しているメリーにどうすると聞いた。
 どうしよっかと返されて、飲みたい気分だと伝えると、そんな余裕あったんだと笑われてしまう。確かに浪費しすぎではあった。下ろした方がいいなと呟いた時に、袖を掴まれた。
「どうせならうちで飲まない?」
 なるほどその手があるか。缶ビールに酎ハイ、肴はなにがいいか、浮かんでくる品はあれもこれもと定まらなくて、想像するうちに空腹から胃がきゅうっと音を鳴らした。
 顔を見合わせたメリーが、にっと笑う。
「いいね」
 映画館を出て最寄りのK駅にまた向かい、電車待ちの間になにを買うかと話して、私達を迎えに来た上り線に乗り込む。酒とつまみは近くのスーパーで買うことになった。
 発車と停車を繰り返す度に、右隣に座るメリーの肩が流れてくる。大事そうに抱える黒いエコバックの中身は、どんな内容なのだろうか。
 少なくとも私が借りた物よりまともであることは確実だ。D駅に停止した電車から降りて、駅から十分も歩けばスーパーが見えてきた。二人してかごを下げて店内に分かれた。私はお酒担当。
 互いの好みもわかっているものだから、これと言って吟味するほどの時間もかからず、深緑のかごはすぐ重くなった。向かい側のつまみコーナーに足を向けてみる。
「サラミにスモークチーズ、そそるけど、量の割には高いわね。となると」
 少し値は上がるが量のあるさきいかと、スモークカルパス辺り。定番のピスタチオとビーフジャーキーは我慢だ。後ろ側は煎餅やピーナッツ類が豊富だったけど、先にあるスナック菓子の列に目がいった。
 もうちょっと塩気の効いた物が欲しいと思われる、うむ。うすしお味のチップスをかごに放り込んだ。
「またそんなのばっかり詰め込んで」
 中身を見て「おやじくさっ」と吐いてきたメリーのかごには、お造りと店屋物の唐揚げがあった。お造りは一人分を確保しているのか二つずつあって、しかも値引きまでされてあった。
「あとは枝豆とお豆腐かしらね」
「サラダは買わなかったんだ」
「ミニトマトくらいかしら、他は家にあるからね」
 こりゃおやじ臭いと言われても仕方ない。私の買い物はテレビなどで見る駄目OLのそれだが、けして作れないわけではない、ないのだ。
 作るよりも楽でそこそこ旨い物があるからしないだけである。
 買い物時を過ぎていてもレジはそこそこ込んでいて、サラリーマンや子供連れの人もいた。賢い専業主婦はとうに済ませているだろうから、この時間帯に来ている人は多分共働きでもしているのだろう。
 並んでいるレジは同年代くらいの男の子がてきぱきと仕事をこなしていて、順番はすぐに回ってきた。勿論会計は二人一緒に。
 スーパーを出ると消えかける夕陽に夜が混じり、紫色の空に群青が重なって、うっすらと星が見えた。ただ今の時刻は午後六時四十五分、昇る月にまだ輝きは認められず、夜と言うには少し早い時間帯だけど、歩道脇の街灯は白く発光している。
 部活帰りの学生達は牛丼屋に入り、スーツ姿の社会人は居酒屋に飲み込まれていって、これから一日の締めを喉に流し込むのだろう。
 車の往来は朝同様あるはずなのに、夜の空気は、においも味も違っていて、見窄らしい鉄板屋の電飾看板ですら妖しく映った。
 信号を渡って、住宅街に入り、音も明かりも減った。ブロック塀の向こうからは夕飯の香りが漂ってくる。
 焼き魚や煮物。おいしそうと呟いたメリーは、歩きながらにおいを楽しんでいる様子だった。団地の陰からはみ出ている四階建てのマンションは、背中から疎らな明かりを放っていた。
 十字路を曲がって着いたマンションの入口はオートロック式だ。住居者でない私だが、開けゴマの操作で扉を解放した。
 エレベーターに乗り込んで三階へ。廊下を左に進んだ六号室がメリーの城だけど、さすがに合い鍵までは持っていないから開けられない。
「早く開けて開けて、袋重いの」
「はいはい」
 ドアを引き開けたメリーのあとに続いて、久々(と言っても以前遊びに来た時から一ヶ月も経っていない)の来訪であるメリー宅は、相変わらず清潔だった。
 出迎えてくれるリビングのマットは白い花柄のイエローグリーンで、ラグマットから変えて二ヶ月は経つはずなのに、染み一つ見当たらない。
 お酒は冷蔵庫に入れて、袋物のつまみ以外はお皿を用意して移す準備。メリーはサラダを作りはじめていた。
 私は冷凍の枝豆を小鉢に入れて解凍した。他にも手伝おうと思ったが、まな板は使用中である。だから手伝えないのは仕方がないのだ。ハマチを皿に盛ろうと思い袋を漁ると、あとの二つが消えていた。
「あれ、サーモン二つとも使うんだ」
「マリネよ。そのままで食べたい?」
「作ってください」
 同じ一人暮らしだと言うのに、この女子力の差はなんなのだろうか。疑問の答えを思いついたようにレンジが鳴る。
「あ、お湯準備してたんだけど」
 どうせ湯通しするのも面倒臭がる性格ですよ。
 底の深い器に野菜を敷き詰めて、中央にサーモンを乗せていけばサラダの完成だ。持っていってと言われて、センターテーブルの真ん中にどんと置く。
 レンジから枝豆を取り出し、取り皿とコップに箸も出せば準備万端だ。席に着くと、冷や奴を手にしたメリーも遅れて座った。
「あら、コップ出したのね」
「またおやじくさいとか言われちゃいそうだからね」
 冷えた缶ビールを注いで、コップを持ったらさあ乾杯。喉を通っていくこの感覚がたまらない、テーブルに並ぶ品数に心が躍った。
 サラダはレタスとルッコラをふんだんに使い、スライスしたアボカドがサーモンを囲んで、外側に散りばめられたミニトマトの鮮やかさが食欲を誘ってくる。
「ドレッシングは二種類あるからお好みでね」
 正直私が買ったおつまみは必要なかったように思えた。さらにトングで取り分けてくれる気の利きよう、女でなければプロポーズしているところだ。
 口の中に広がる幸福を味わいながら、コンビを組んでいてよかったと感じた。

      *

 酔いどれながら過ぎていく時間は早くって、いい感じに瞼もとろけだした頃には、時計の針は十時半を指していた。作られた肴は綺麗にさらえたけど、私はまだ少し足りなくて、買ってきたカルパスを開けた。メリーは手をつけず、少なくなった酎ハイを傾けている。
 1LDKのリビングはすっかり酒臭くなっていて、転がる空き缶の量に明日の二日酔いは確実だった。頭痛は嫌だったけれど、アルコールを求める体は止まらずもう一本。
 上品を振る舞うのはとうにやめていて、カルパスを食みながら、ビールをちびちびと飲んだ。酔いも回って種も尽きてしまえば眠気が襲ってくるもので、でも私はまだ酔いたいわけで、視線を部屋に振って、起きている理由を探した。壁に立てかけたままのエコバッグに気がついて、腕を伸ばしてみた。
「こらぁ、人の物を勝手に見るんじゃありません」
 いいじゃんいいじゃんとあしらいながら中身を広げた。図書館で見ていた桃色表紙の童話に、可愛らしい兎が表紙のシリーズっぽい本が二冊。
 タイトルは「ゆびきりげんまん」に「月兎の餅つきぺったん」と「月兎の侵略旅行」だ。
 シリーズ本らしい前者の中身はタイトル通りの内容だった。後者は地球旅行ついでに人間を奴隷としてさらってしまおうという、およそ絵本らしくない物騒なストーリーで、奥付の発行日を確かめると、侵略旅行の方が続編に当たるようだった。まあ童話って実は残酷な世界みたいなのが多いから別段おかしいとも思わないけれど、この脈絡のなさはシュールの一言に尽きる。
 兎達の奇行をぼんやり眺めていると物音が聞こえて、顔を上げてみれば、怪盗マエリベリーが私のバッグを漁っているではないか。
「言ってることとやってることが矛盾してませんかメリーさん」
「あら困るの? でも私はいいじゃんいいじゃんって返すだけだからね」
 いつから山彦になったのか、突っ込みは胸の中にしまい、放っておいた。酎ハイを傾けている視界の端に抜き取られる本が映って、含んだ物を缶に戻してしまう。
「あちょ、ごっほ、待って待って」
「小説なんて借りたんだ、珍しいわね」
 変なタイトルと言って表紙を眺めながら笑うけれど、見られてしまった私には笑えない状況だ。変わった感性と表現するのは簡単だし聞こえだって悪くもないが、八割方の人があほだと思うだろう。
「このタイトルを見た者は一ヶ月後あひゃああああああああああんと言いながら夢精する。……素敵ね」
 本当にそう思う。書いた奴にもこんな物を世に出した出版社にも感服するし、一冊分のスペースを使ってまであほみたいなって言うか絶対あほな小説置いている図書館も大概あほだ。
「読んでもいい?」
「ああ、うん」
 眠たそうな目が文字を追いはじめて、一枚、また一枚と頁をめくっていく。私自身そんなつもりはなくても速読だとか言われたりするけど、メリーも結構な速さで読んでいて、酔っているとは思えないほどだ。
 酒と肴を味わいながらその様を眺めて、区切りいいところまで行けたのか、メリーは、はたと開いていた本を閉じた。
「ねえ、これ読み終わったら私に回してくれないかしら」
「面白いの?」
「内容はそうねぇ、まだわからないけど、興味が湧いたわ」
 手渡された本を床に置いて、先に読んでも構わないと言ったけど、自分が借りてきた分を読みたいからあと回しでいいと返された。
 メリーはコップを空けてから台所に立ち、浄水機から注いだ水を飲み干して、酔いを覚ましていた。
「蓮子はお風呂どうするの」
「朝でいいよ」
 脱衣所に向かう背中から視線を外し、一人寂しく酒を含んだ。カーテンレールをスライドする音が、すりガラス付きの開き戸の奥から届いて、次にタイルを打つシャワーが響いた。コップがからになって、本日四本目のビールを引っ張りだした。
 一口してから、ふいと置きっぱなしの本を手にした。
 挿絵でもないものだろうかと頁を滑らせていると、折り畳まれた紙切れが落ちてきて、拾い上げた。
 これを見つけた君はとても幸運だ、もし恋に悩んでいるのならこれを実践するといい。飛び込んできた縦書きの文面があまりにも粗末に思えて、馬鹿じゃないのとつい独りごちてしまう。
 たまにあるいたずらだ。定期的な管理のない病院の本とかに、こうやって、絵や文字のいたずら書きが挟まれていたりする。狡猾な奴は漫画のブックカバー裏に隠したりしているけど、図書館の本でやるなんて、物好きな奴もいたもんだ。
「それは私達も同じか」
 確率の隙間を抜けて私の手に届いたのだから、仕掛けた奴にとっては大成功なのだろう。肝心の内容は対象に自身の唾液入りジュースを飲ませるという、在り来たりな上に確証のない類だった。これならまだ媚薬を溶かして飲ませた方がましなレベルだろう。
 メリーの目に触れる前でよかったと思い、紙はくしゃくしゃに丸めてやって、ゴミ箱に投げ捨てた。さよならお馬鹿さん。
 小説を投げ出した右手がまた暇になる。テレビはつける気分じゃないけれど、なにかしていなければアルコールに飲まれてしまいそうだった。
 雑誌でもないものだろうか、見渡してみるリビングには見当たらなくて、背中を向けている引き戸に目がいった。ビールから手を離し、のそのそと四つん這いで近付いて、寝室の戸を開けた。
 差し込んだ光が壁に伸びて、薄暗い部屋の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。閉じたカーテンの下にベッドが一つと、左手側の隅に置かれた箪笥に本棚が肩を並べていた。以前訪れた時となんら変わらない空間が、私の侵入を咎めることはない。お邪魔しまぁすと酒臭さを振り撒きながら立ち上がり、本棚を漁らせてもらった。
 漫画類などがないのは私と同じで、違うのは専攻分野関係の本が目立つことくらい。勤勉な性格が表れている本棚に面白味などあるはずもなく、関心のいかない背表紙達の金箔から外した視線を、ベッド脇のナイトテーブルに向けた。スタンドライトのそばで重なる二冊の本が気になって、手を伸ばした。
 のしかかっていた本は芸能人の自伝本で、下敷きなっていたタイトルは「バイセクシャルの心理」だった。
 どちらに興味が湧くかと言ったら前者なわけで、ひょいとベッドに腰かけてスタンドライトをつける。自伝本の本人は名前くらいなら知っている程度だが、眠たくならない内容であればなんでもよかった。
 面白ければ少しの間借りて、酒を楽しみながら読めばいい。そでに載っているプロフィールをすっ飛ばして、本文を追った。
 私がレズになった理由――初っ端から強烈な言葉が、酔いの回った頭を打ってくる。周囲との違いに気付いてからの苦悩、大学に入ってから知り合った同性との初体験。なんとまあ濃い人生なんだろう。
「これはいい」
 肴にするには十分だ。気分を上げてスタンドライトを消した。
「なにがいいのかしら」

 ドゥルン。

 いつの間に上がったのか、メリーはさっぱりとさせた顔だけを引き戸の陰から出して、口元を緩めていた。
「バイセクシュアリティのカウンセリングをご所望?」
「やめてってば」
「じゃあレズね」
「角っこ投げつけるわよ」
 怖い怖いと笑いながら引いていったメリーを追ってリビングに戻る。酒とつまみの辛さしかなかった空間に、シャンプーの柔らかい香りがほんのりと漂っていた。タオルを首にかけたまま座り、メリーはドライヤーの息を髪に当てた。
 さっきよりも強く柔らかいにおいが鼻に届いてきて、酒に囲まれて座っている状況が、場違いに思えてしまう。一人暮らしの中年が部屋に女を連れ込んだら、きっとこんな感覚を覚えるのだろう。メリーの周りにだけ、花が咲いたようだった。
 濡れた毛先からこぼれる雫が、白いネグリジェから覗く鎖骨に流れてまた落ちる。滲み出ている汗を吸い込んだ襟元はうっすらと湿り、薄いシルクが肌に密着して、ブラも着けていない膨らみを強調させるようだった。
「なに、珍しそうに眺めて」
「別に」
 悔しくはない、ない。
 ビールを含ませた唇は、若干尖っていたかもしれない。持ってきた本に目を落とした。
「それ面白い?」
「読みはじめたばっかだよ。メリーはどうだったの」
「共感はできないかな」
 なら作者の半生はお察しだ。連ねていくきっかけや動機の先に待っているのは、自身を嘆き、己を受け入れてくれなかった社会への不満に決まってる。
 なんだか途端に読む気が失せてしまって、這い上がってくる欠伸がヒドロキシル基を引っ提げて体から出ていった。絞り出された涙で少しだけ視界が霞んだ。
 目尻を拭い終わると同時にうるさかった温風がやんで、メリーはテーブルを片付けだす。開封したカルパスの袋を輪ゴムで閉じて、開けなかったつまみの入った袋にしまうと空き缶を集めて、すっきりしたテーブルを拭いてからついでと言わんばかりに、飲みかけのビールまで没収されてしまった。ああ、私の本生ちゃんが冷蔵庫にしまわれてしまう。気の抜けた状態で飲み直してもおいしくないのに、殺生な。
「ほらほら、さっさと歯磨き済ませて布団敷く」
「あー、あー、ビールぅ」
「明日はオカムラ先生の講義出る予定なんでしょ?」
 そうでしたー。
 諦めて洗面台に直行して、寂しがる口にブラシを突っ込んだ。鼻腔を突き抜けるミント味は、否応なく酔いを覚ましてくる。
 最後に残された楽しみは、飲み疲れた体を横にするくらいだった。
 用を足してから戻ったリビングに明かりはなくて、開けっ放しの寝室からだいだい色の光が漏れている。部屋に入ると敷き布団はもう用意されていた。
 肩にシーツを被せるメリーは、バイセクシャルの心理をスタンドライトの薄明かり頼りに読み耽っていた。布団に体を滑り込ませて、枕に頭を預けた。右手で頬杖をつきながらの側臥位は疲れないだろうか。見上げてみるメリーの瞼はちょっとだけ落ちていて、眺めているこっちが眠気を催されそうだった。
「ねえ」
 落ちていた目線が動いてから、あと追って、輪郭がこちらに向いた。眠たそうな顔に「面白い?」と投げてみる。
「学問はいつでも好奇心を歓迎してくれているわよ」
「かけ持ちするほどじゃないんだって」
「じゃあ体験コースはどうかしら」
「お断り」
 連れないのと綻んでから本を閉じ、スタンドライトが消された。シーツを深く被った私に今度はメリーが「ねえ」とかけてきて、暗くてはっきりしない顔を見つめた。
「もし協力して欲しいって言ったら、その場合は」
「可能な範囲であれば別に」
「体を重ねたいって求めたら?」
 それは。
「冗談よ」
 おやすみと言った表情は、まだ暗さに慣れない目では捉えきれなかった。寝返りを打った背中に一拍遅れてから、おやすみと返した。

 体を求められたら、私はどうするだろう。
 考えるまでもなく答えはノーだ。けどその時になれば私は、返事を濁すかもしれない。活動の障害になりかねないのなら多分そうする。きっぱり断ったところで気にする玉でもないだろうが。
 静かに寝息を立てる背中は、なにを思って、あんな質問をしたのだろう。我儘を通すために体裁を取り繕う私なんかが、考えたってわかるはずなかった。
 仰向けになった体は存外重くって、敷き布団の柔らかさに意識ごと沈んでしまうようだった。

      2

 最悪な朝の時間を過ぎてしまえばあとは楽勝だなんて、通学途中の私はなんてぬるい思考だったのか。
 案の定二日酔いになった頭を押さえながら朝は風呂に入って、トーストを食べて、込み合った電車内で酒臭さをしかめられながら頭痛に耐えて、キャンパスに着いてから吐き気を催してトイレでマーライオンになって、へろへろの状態で一番上段の席を確保したと言うのに、オカムラの声は奥まで届いて来やがるのだ。
 耳を塞ぎたくなるが、そんなことをしたら退席させられてしまうし単位も取れない。開いているノートに文字が走ることなんてなく、終わりかけの講義時間を前に、割れそうな頭の中で「あと少しあと少し」と唱え続けるしかなかった。
 時計をちらりと眺めたオカジマの口から「ここまで」が出て、やっと頭を殴られるような声から解放された。緊張の解けた学徒達は浮かれ気味に席を立っていくが、私は諠譟が去るまで動けそうにない。
 出席していた大半が出ていくのを見届けてからよろよろと続いた。講義室の近くのベンチに腰を下ろす。三号棟は食堂やグラウンドから離れているから、ゆっくりと休めるだろう。
 幸いなことに必修科目も控えていない。バッグから水を取り出して胃に流し込んだ。
 メリーは続けて講義を受けているだろうし、顔を合わせるのは昼を回ってからになりそうだった。受けたい講義は大分あとだし、暇を潰せる相手がいないと言うのは、なかなかに退屈である。
 どうしたものかと耽っていると、後ろから名前を呼ばれて、女独特の声質が頭にがんがんと響いた。肩を掴んでくる不躾者は知った顔だ。
「うは、あんた本当に二日酔いなんだね、さっけ臭」
「イノウエ、あんたねぇ」
 わかってるなら大声出すなっての。寄って寄ってと端に追いやってくるイノウエが腰かけて、その隣にショートパンツの禿びが座って来る。こいつが悪知恵を吹き込んだ犯人なのは明白だった。
「ごめんごめん、グロッキーだったからもしやと思っただけなんだけど」
 イノウエの髪をいじくりながら笑うツチヤにぶちまけてやりたい気分だったが、暴発してしまって残弾はない。ポケットから飴玉を取り出したイノウエは、これで勘弁ねと寄越してくる。フィルムを裂いてありがたく舐めた。
「桃味だから許す」
「まだにおい取れてないんだからこっち向いて喋るな」
 どんだけ飲んだのよと顔をしかめてくるイノウエは、オールナイトでもやったのかと言って、ツチヤの肩に腕を回した。
「あんた等と一緒にしないでくれる?」
「そうだよミキ、宇佐見さん達はまだまだバージンだって今朝も笑ってたじゃない」
 ラブラブ通学だったもんねぇと間延びさせてくるツチヤは、軽く小突いてやってもいいかもしれない。レズビアンカップルとして通っている二人からすれば、私達みたいな清い関係でいる二人組ですらビアン予備群に見えるらしい。
「処女だって打ち明けた覚えはないけど」
「え、嘘ぉ、じゃあ宇佐見さんバイ?」
「いい加減この馬鹿殴っていいかなイノウエ」
「宇佐見、幾ら私のことが好きだからって嫉妬心をリョウコに向けるのはだめだ。あと息臭いからこっち向くな」
 飴玉を吐き飛ばしてやろうかと思ったが、喜ばれそうな気がしたのでやめた。
 イノウエは肩にまでかかる髪を右手で撫で払い、そう怒るなと笑みを浮かべた。仄かに香水のにおいが漂って、私よりも頭一つ分高いところにある瞳はどこか色っぽく見えた。ミュージカルの男役をやらせたら似合いそうな顔立ちは、その手の人にモテそうではある。
 そう考えると、選んだ相手が禿びで童顔なツチヤなのは納得だった。ボーイッシュな格好だけど、ベッド上の性格はきっと受けだろうなと勝手に想像した。
「周知はされていても、まだまだ私達みたいなのは肩身が狭いからね、まあ許してやってくれ」
 寄り添いながら二人分の視線を向けられても正直腹が立つだけだが、見せつけに来ただけならばそのうち離れるだろう。二人が専攻している講義ももうすぐはじまる。
 口の中で溶けていく味を噛み砕いて、水と一緒に飲み込んだ。
「今朝も思ったけど、あんたらってホント仲いいんだよねぇ……ねえ、こっち側に来ない?」
 左髪をそっと撫でられて肩が跳ねてしまう。
「なに言ってんの、講義はじまっちゃうし受けに行ったら?」
「別にからかってるわけじゃないんだ。ただ、勘と言うかな、お前達の雰囲気が若干変わったように見えたんだ」
「そんなわけないじゃない。私はレズでもなければバイでもないわ」
 イケメン好きだしお金持ちだったら尚よしだし男性器にだって、多分興味はある。デニムスカートに飛んできた葉っぱを払ってから立ち上がるイノウエは、左腕に抱きついてくるツチヤの頭を撫でて、ゆっくりと顔を向けた。
「彼女はそうじゃないかもよ?」
 邪魔したねと立ち去る背中に、思わず声を投げそうになる。
「どういう意味よ」
 呟きは風にさらわれるばかりで、渡り廊下を歩く彼女達に届くはずもなかった。
 ペットボトルの水はもうないのに、喉が、渇く。
 二日酔いの重さが消えるようだった。メリーがレズだなんて、そんな。
 ラグビー部の気合いはグラウンドからここまで届くし近くを通る学徒だっているのに、拾う音はフィルターがかかったみたいにぼやけるようだった。
 額に手を当てて、かぶりを振る。からかわれただけだ。疲れているから、こんなつまらないことを真に受けてしまっているんだ、私は。
 ベンチから立ち上がって、後ろから、聞き慣れた声が「蓮子」と呼んだ。

 ドゥルン。

「メリー」
 講義はどうしたの。訊ねる前に「大丈夫?」と聞いてきて、講義内容が変わったから抜けて来たと話した。顔色が悪いと額に被せられた手は少し冷たくって、「水飲む?」と買ったばかりらしいミネラルウォーターを差し出すメリーは、いつも通りだった。
 座り直して喉を潤した。息をつくと肩から力が抜けていく。緊張していたらしい体はやっぱり疲れているのか倦怠感がまとわりついているようで、朝は寒気を覚えていたのに、今はなんだか熱っぽかった。
 また大丈夫とかけてくるメリーは、今日はもう休んだらと顔を覗き込んでくるけど、受けたい講義があるから無理だと返した。
「オカザキ教授の?」
「うんそう、あの人変わってるから」
 予定が潰れてしまったメリーはもう帰るつもりだと言った。気にしてくれなくてもいいと笑ってみせて、ベンチに横たわった。
「帰れないんだけど」
「ちょっとだけ」
 柔らかい膝枕は少し高めだけれど心地がいい。棟が陰になっているから日差しも気にならないし、昼寝するには丁度いい場所だった。トンと額にペットボトルを乗せられて、うっすらと掻いていた底の汗が肌の上で粒になり、冷たさが耳から首筋へと下っていく。
 シャツの襟元が水滴を吸収してから、傍目から見る私達の姿はイノウエが言っていたような印象を抱かれるのだろうかと、はたと我に返って、寝かせていた体を起こした。
 肩を掴まれて、引き戻された頭がすとんと膝に落ちた。
「帰るんじゃなかったの」
「恥ずかしいんでしょ」
「なんでよ」
「だって変な起き方だったもの」
 浮かべた微笑の内側で、メリーはなにを思っているのだろう。髪を撫でてくる手は優しくて柔らかいけど、周りが邪推するような関係にはやっぱりなれないし、梳いてくる指先にだって下心は感じられない。
 ねえと声をかけて、子供をあやすみたいに「うん」と発した口元は、膨らみの陰に隠れて見えなかった。
 喉元まで上がっていた問いかけは、「なんでもない」だなんて透明な言葉に変わっていた。背凭れに寄りかかるだけで反応されないのが、逆に不安だった。表情を読み取るのは苦手だし覗こうとも思わないけど、目に映らないと、どうしようもない恐怖に駆られてしまう。
 メリーは、レズなの?
 毛先で遊ぶのをやめた手が、脇に置いていたトートバッグの持ち手を肩に通した。上体を少しだけ持ち上げる。
「無理しないようにね」
「夜には復活してるよ」
 離れていく後ろ姿が渡り廊下に消えてから、お腹に置いていたバッグを敷いて、また横になった。

      *

 寝過ごしかけた頭で受ける講義はしんどい上に話が難解なものだから、講義内容をノートに写すので精一杯だった。なんだか字もへろへろになってるし、無駄も多くて略せていない気がする。あとで読み直した時に理解できるか不安だ。
 講義が終わりに近付いてきた頃、バッグの中で携帯が震えた。中段の席にいたけれど、生徒受けしない人柄なのか講義室は空席ばかりだった。
 取り出した携帯を開き、辞書を引くふりしてこっそりと確認した。着信はメールだ。多分メリーからだろう。疑われるわけにはいかないので、開かずに携帯をしまった。教授のさてここまでにするかを合図に、私の一日は終了した。
 席を立ち、外に出て、メールを開く。復活した? 本、忘れてるよ。取りに行くと返したらまたすぐに返ってきて、夜に会えるかと聞かれたので了解した。
 待ち合わせは七時半にS駅。丁度星が見えはじめる時間帯だ。大学から離れ、コンビニで財布を肥やしてから、書店で時間を潰した。
 やがてタイマーセットしていた携帯がポケットの中で暴れて、解除して店を出る。外はもう夜のカーテンが下りはじめていて、六時四十分を過ぎた月の光はまだ弱かった。最寄り駅から乗り換えして、S駅までは電車待ちを含めて十五分ほどだ。駅に向かう道中も増える人込みは、改札を通った先でも同じで、ホームや到着した車両には人であふれている。乗り込んだ電車に席なんてなくて、空いている吊革も高い位置しかなかった。乗降を繰り返す人波に押されながら揺られ続け、乗り継ぎの駅に着いてから下り電車を待つ。
 次の電車は三分後に来る予定で、待ち合わせの時間までは余裕があった。私にしては大分早い方だけど、メリーは普段からこんな感じなのだろう。もしかしたら同じ電車に乗っていて、今もホームの人込みに紛れているのかもしれない、そう思ってフリフリの帽子を探してみたけれど、目立つのは正装に身を包んだ人ばかりで、大学で見たワンピース姿のメリーはどこにもいなかった。
 到着した電車は乗り込むとすぐに発車して、各駅停車で目的地へ向かう。流れ出す濁ったアナウンスはS駅までの道のりを停車する度に伝え、お約束を機械的に繰り返し続けた。
「次はぁ、S駅、S駅」
 速度を落としはじめた車窓の向こう側は、足を運ぶことも少ないからか記憶していた景色と少し違っていた。てにはをの部分を間延びさせる車掌とはここでお別れ。ホームの時計は七時を過ぎていたが、メリーのことだ、約束の十分前には来るだろう。売店でのど飴を買って、改札を抜けた先の壁に凭れかけた。
 なんとなしに天気予報を開くと、九時過ぎには雨が降るかもしれないらしい。せっかちな明日だった天気が運んでくる雨は、結構な量が予想されていた。
 閉じようとした携帯のディスプレイが発光して、初期設定のまま変えていない着信音が鳴った。メリーからの電話だ。通話ボタンを押して出てみると、かけてきた本人が目の前に立っていた。
「お待たせ、早いのね」
 生と電話越しに拾う声が重なるのは、なんだか変な感じだ。通話を切って、携帯をバッグにしまう。
「行こっか」
「雨降るみたいだから、コンビニ寄っていい?」
 そうなんだと言ったメリーも傘は持っていなくて、バス停近くに出来ていたローソンで傘を買った。観光地でもないT市の街並みは、駅周辺から離れると途端に胡散臭くなってくる。夜だからと言ってしまえばそれはどこも同じだろう。酒に酔った中年がおよそ自分の娘くらいのキャバ嬢と腕を組んで、妖しさが頭を覗かせている道に消えていった。
 この街に来た目的はなんだろう。つまらないオカルトごっこが続く毎日の中で、また、境界を見つけたのだろうか。私の目でわかる境界と言ったら、昼と夜で変わりはじめる街くらいなものだ。
 少しだけ前に出ていたメリーの袖を掴み、どこに行くのかを確かめた。
「着いてからのお楽しみじゃ駄目?」
「気になるじゃん。もしかしてだけど、境界見つけたとか」
「それなら先に連絡入れてる」
「じゃあどこ」
「昨日のこと、覚えてる?」
 信号待ちで止まった足の代わりに記憶を辿らせた。朝の寝坊から寝付くまでのことは覚えている、伝えると、メリーは、なら大丈夫よねと口の端を上げた。
「協力して欲しいの」
 一体なにを。
 問いかけることができなかったのは、光が青に変わったからだろうか。それとも、浮かび上がった答えの所為だろうか。横断歩道を進む足が重たく感じるのは、頭の中の信号が黄色に変わっているからだった。
 可能な範囲であれば手伝うと言った言葉は、どう受け取られているのだろう。あの夜、あとに続けられた問いかけには答えていない。
 思い出したくもないイノウエの台詞が、引き出しから勝手にこぼれ落ちてくる。
 ドゥルン、ドゥルン。
 警鐘を鳴らすみたいに、心臓の鼓動が速くなる。協力を請うのだからきっと精神学に関係したことのはずだ。私はなにを不安に感じているのだろうか。
 顔を振り向けてきたメリーの指先が、電飾看板の突き出ているビルを差した。色を重ねている案内は五階まであるけれど、雀荘なんて入らないだろうし、怪しいエステサロンだって、生活が苦しくならない限り私達には縁のないところだ。時間帯的には丁度いいものの、食事を取るには些かいかがわしい。わざわざ選ぶ理由も思い当たらない。
 予想が当たって、メリーの足は地下へと進んだ。塗装の剥がれた階段が途切れた先は通路になっていて、長方形の黒いタイル張りの床は、白い溝があみだみたいに延び続いている。
 居酒屋やラーメン屋があったけど、メリーはおいしそうなにおいを素通りしていく。隣に足を並べてから肘で軽く小突き、そのまま肩をくっつけたまま、いい加減教えてよと言った。
「別に逃げたりしないからさ」
「本当かしら」
「当たり前じゃん」
 犯罪に関わることじゃなければねと付け足すと、ないわよとメリーは笑い、でも私は好きじゃないかもしれないところだと続けた。
「だから、どこ」
「ビアンバー、そこを曲がったところの」
 思わず、聞き直した。ビアンバーよと繰り返すメリーは、「やっぱり嫌?」と確かめてくる。
「まさか」
 薄暗くなっている角の先には光源が一つしかなくって、壁に埋め込まれている小さな看板にはPoolと書かれていた。扉を開けようとするメリーに、どうしてとは聞けなかった。
 通路は暗かったのに、店の中は明るくって、カウンターの背後にはでかでかと店のロゴが張り付けられている。スーツ姿のウェイトレスにメリーはカードを差し出して、代わりに楕円型でピンク色のバッジを二つ渡された。
 帰る時に返さなくてはいけないらしいその一つは、私の胸元につけられた。料金は前払い制で、メリーは財布から大きいお札を三枚も出していた。
 多分私の分も出したのだろう。腕に提げていたビニール傘はお預かりされて、ウェイトレスは仕切りのカーテンを持ち上げてどうぞと言う。財布を出し、通された通路で引き止めて払うと言ったけど、メリーはいいのよと目を細めるだけで、お金は受け取ってくれなかった。手洗いの前で足を止めたメリーが待っててと言う。頭が回らなくなっていたから、あとに続いた。
 個室に入ってから音姫のボタンが押されて、私は洗面台に手を伸ばした。センサーが反応して注ぎ落ちる水を両手で受け止め、顔を濡らした。
 この店で私は、一体なにを協力すればいいのだろうか。さっき提示したカードはおそらく会員証だ、カップルでなきゃ入れないところならそんな物はいらないはずで、見に行きたいから誘ったというわけではないだろう。メリーだってイノウエ達と面識はあったはずだし、興味本位ならまずそっち側から声をかけるに違いない。
 私である理由はどこにある? ここは酒を楽しむだけの場所か?
 浮かんでくる疑問は水みたいにさっと拭えなくて、当てているハンカチで視界を覆った。
 ドゥル、ドゥル、ドゥル、ドゥル。
 メリーは、レズなんだろうか。
「お待たせ」
「ドゥルウウウウウウウン!」
「え?」
「あ、いや」
 心臓の音が口から出てしまった。なんでもないと誤魔化して、手洗いを出る。聞こえてくる音楽は大人しいものなのに、今の私には全然効いてくれない。短い通路を抜けた空間は淡いブルーライトに照らされていた。
 ボックス席もある広い空間はどちらかと言えばクラブに近いけど、奥にはボトルが並んでいるカウンター席もあった。交流を楽しむビアン達の顔立ちは影がかかっていて、近付かなければわからない。

 ドゥドゥドゥ、ドゥル、ドゥルッ、ドゥルル、ドゥルン、ドゥルン。

 鼓動が鳴りやまない。ここにいる人達は皆ビアンなのだ。メリーはカウンターでカクテルを二つ頼み、バーテンがシェーカーを振りはじめる。ビアンだらけなのだから、当然こいつもそっちなのだろう。交流が目的なら客へのアプローチだって禁止されないのか、メリーに当てている視線は熱っぽい気がした。
 出されたカクテルはリキュールベースのフルーティー・ディタだとバーテンに説明された。飲み口に刺さった輪切りのレモンが、透き通る青色に映えていた。くびれたグラス底に沈む蔕のないチェリーは、どうやって食べるのだろう。ひし形模様の壁際に移動しても、メリーが話しを振る気配はない。カクテルを含みながら見渡している様は他の客達にどう映るだろうか。
 噎せ返りそうな香りがするのはきっと酒だけの所為じゃなかった。出会いを求めて集まっている花達のフェロモンまで、舌に刺さりそうだとすら思う。
 いつまでこうしているのか、持て余す時間からふと視線を泳がせた。ボックス席の一人と目が合って、続くように、隣に座っていた一人の目も動いた。
 二人組は同席している人達に軽く断る様子で立ち、仲良く手を繋ぎながらこっちに歩いてくる。離れていてはっきりしなかった風貌は、私達とそう変わらないように見えた。
「あの、お話いいですか?」
 戸惑う私の代わりに「いいよ」とメリーが答えた。話しかけてきた黒い長髪の子はユキと名乗り、私と同じ長さくらいの茶髪を束ねている子はサナエと言った。先に名乗るメリーだけど、なぜかマリーよと名前を偽った。
 私が使っている愛称を言おうとして訛ったのかなとはじめ思った。流れる視線を追うように、返した左手を私に向けるメリーは「こっちはレンよ」と言って、勝手に紹介した。
 名前を偽る必要があるのだろうかと考えてから、彼女達もそうなのかもしれないと至った。常連ですか、とユキが聞いてくる。メリーに視線を流しても話す素振りがなかったから、私は初めてだと言った。
「じゃあ私達と同じ初心者同士なんですね」
「二人とも今日がはじめてなんだ?」
「ええ、私は別で通ってるところがあるのですけど、そこでここを教えてもらっていたので、京都に来たから、折角だから行こうってなって」
 そうなんだと相槌を打つメリーは「大学生?」と訊ね、ユキ達はM大に通っていると答えた。久しく聞いていなかった標準語だったのに違和感を感じなかったのは、向こうで過ごした時間の方が長い所為なのか、メリーが標準語に近い喋りだったから訛らなかったのかはわからないが、ユキは京都美人ですよねと瞳をうっとりさせて、私を見つめてくる。出身が同じところだとは、言わないでおく。
「二人って、カップルなの?」
 ユキとサナエに視線を振りながら、メリーが聞く。そうですと答えるユキは明るいのに、サナエの方は照れくさそうにしていて、私に目を向けたり外したりと繰り返していた。それに気付いたユキは、いきなり腕を組んで見せつけだした。
 謝ってくるユキはサナエが嫉妬深い奴なんだと言い出して、頭を撫でていた。私への印象を口走った時だろう。視線を向けられる回数が増えたのはその所為で、私がたらしかなにかだったらと警戒していたのかもしれない。
 メリーは彼女達の馴れ初めにご執心だったけど、関心がいかなくて、私は外に目を向けた。フリーの人がパートナーを求めて集まるところだと思っていたけれど、見渡してみればそれらしい人達がちらほらと見受けられた。イノウエ達が言うように、肩身が狭いから、ここに訪れるのだろうか、それとも、浮気や保険探しが目的なのだろうか、レズでもない私に観察されて、肴にされているとは知らず、彼女達は酒と談笑を楽しんでいる。
 たまに横目でユキ達を見て、会話を拾う。と言うより、近いから聞こえてくるものだから、つい視線が動いた。
 ビアン同士の会話がこうなのか、ユキ達の性格なのかは判断がつかないけど、話の内容は結構ハードだった。会話から心境の変化や性格を探りたいのであろうメリーは、根掘り葉掘りと感じさせない聞き方をしながら、プライベートを話させている。サナエがレズに至ったのは女子校だったからと、まあ典型的だと思える経緯で、ユキの方は、男とするよりも気持ちよかったからと聞こえてきて、折角のカクテルを噴き出しそうになった。
 バイなんじゃないかと浮かんだ疑問はメリーも同じだったみたいで、今はもう完全にこっちなのと確かめた。「そりゃあもう」
「男なんて出すモノ出したら一人で満足するだけだし、気分でもないのに寄り添っただけで欲しがってるだとか勘違いするですもん」
 それは人にもよるだろう。年齢なんかも、きっと関係してる。たまたまそういうのに当たっただけなんじゃなかろうか、思ったことは口に出さない。
 そうねと合わせているメリーだけれど、本当のところはどうなのだろう。男の影なんて見えなければ聞いたこともないし、お互いに過去を聞き出したりもしなかったから、経験の有無だって知らない。
「お二人はどうなんですか」
 まばたきをするサナエの瞳が、私とメリーを交互に捉えた。話している間に打ち解けてくれたのか、表情の硬さが取れていて、ふにゃりとした垂れ目が少し愛らしく見えた。
 向けられている眼差しの奥に、なにか期待めいたものを感じた。
「さあ、どちらかと言えば、そうね、古い言葉だけど、私達はプラトニックなベクトルなのかも」
「そう言うのって、凄い憧れます」
 サナエのあとを追って頷いたユキが、それじゃあと発した。
「将来的には結婚する感じですか?」
「ちょっと飛躍し過ぎじゃないの、それ」
 たまらず突っ込んでしまう。だってと続けるユキは気にする様子もなく、同性婚なんて今や普通だと言った。それは外国での話だろうに。理解はしているようで、日本も早く容認したらいいのにと笑うユキは、絡めていたサナエの手をぎゅっと握る。
 あんた達は一緒になるの?
 滑らせそうになる本音は、グラスを傾けて塞いだ。
 睦み合う姿を眺めているメリーは、どう思っているのだろう。ここに来たのは精神学をより深く実感したいからで、誘ったのも、一人では絡みづらいカップル達の話を聞くために違いない。なにも言ってこないのはその表れだ。
 私達へ抱いていた興味を満たしたのか、ユキ達はまた、目が合ったのであろう別のカップル達の元へと向かった。離れていく背中を見送る瞳は、望んでいた答えを見つけれたのだろうか。からにしたグラスのチェリーは食べる気にはなれなくて、殆ど飲みきっていたメリーの分も預かり、カウンターに返しに行った。おかわりを聞かれたけど、昨日に十分酔ったから、いらないと告げた。
 戻ると、メリーはまた誰かと話していた。
「あら、お友達?」
 切れ長の瞳が私を捉えた。ワックスで固められた左側の髪だけを、後ろに流している女だった。可愛いわねと唇を緩める女は、シノザキと名乗った。
「長ったらしいようなら下の名前で、マイって呼んでくれていいわ。あなたは?」
「私は――レンです」
 品定めしてくるような目線がメリーに移って、少しだけ下がる瞼に、いやらしさを感じた。メリーの表情が硬くなっている気がして、一歩前に出た。
「あの、あんまり見られてもマリーが困っています」
「ええ? マリーって……なんだ酷い、騙してたのね」
 なにがだろう。確かめる前にシノザキの口が開いて、マエリだって言ってたじゃない。それは、本名の方だ。なぜ知っているのだろうか、気になって、知り合いですかと訊ねた。
「まあね。ここを紹介したのも私だから、来てくれて嬉しいわ」
 経緯はどうあれ、面識があるのは間違いなさそうだった。立ち話もなんだわと言うシノザキは、奥のボックス席に誘った。遅れてその背中についていくメリーの右手が触れてきて、握ってきた。引かれるように歩く中、左手に収まる細い指先が、震えている気がした。
 席にはすでに五人ほどかけていて、シノザキの帰りを待ちわびていたようだった。私やメリーも歓迎はされたけど、正直気が乗らない。ブランデーのボトルを開けている席は酒臭くって、頼んでもいないのに空いたグラスを渡された。注がれる琥珀色が濁って見えるのは、置かれた状況を心が拒んでいるからだろうか。こういう時に数なんてものは厄介だ。
 細められている瞳が冷たさを孕む前に、一口だけ付き合った。
 それぞれが自己紹介をはじめたけれど、私はあんた達とは違うのだ。そうとも言えず、興味のない名前を仕方なしと耳に入れた。
「ねえ、そろそろ席替えしない?」
 向かい側に座るソバージュの女が言って、いいね賛成と周りは動く。私はメリーと離されてしまったというのに、シノザキの奴は相変わらずくっついている。
 二人は元々いた位置の向かい側に座っただけで、真ん中に追いやられた私の右隣は、席替えを起こした女だ。名前は確か、アイだった気がする。
 ボディラインが出るタイトな赤いドレスは目に優しくないのに、アイは密着してきて、飲みかけのブランデーを進めてくる。あまり強くないと拒んでみても、大丈夫だとか介抱してあげるだの言ってきて、グラスを手渡してくる始末だ。
 持つだけ持っておいて、飲む時は弱い振りをしながら、ちびちびと傾けた。
 アイは私に気がある素振りだったけど、こっちは女の体なんかに興味はないし、話の合間に動く目が捉えるのは谷間なんかじゃなくて、メリー達の方ばかりだ。
 壁際だと気にならなかったボックス席の声も、座ってしまえばうるさいもので、シノザキとメリーの会話なんてこっぽっちも拾えやしなかった。右腕に憎たらしい豊満さが押し当てられる。
「レンちゃんもマイさんみたいなのが好みなんだ?」
 格好いいもんねと言うアイには調子を合わせるものの、私にはさっぱりわからない。黒のハイボタンカーディガンに下はブラウンで、多分タンクトップ、レザーパンツにハイヒールと着こなしている体型は確かに憧れも抱くかもしれないし、ミュージカルの男役っぽくて好きな人には受けるだろう。
 イノウエも似た系統だけど、シノザキからは、品というものが感じられなかった。馴れ馴れしくも肩へ腕を回す姿に腹が立った。
 面識は合ったとしても、メリーにその気はないじゃないか。うつむき気味の表情は暗くて、髪をいじられる感覚が嫌なのか、目や口元は強ばっていた。
「あれぇ、マリーちゃん顔色悪いよぉ。酔っちゃった?」
 アイが声を飛ばすとシノザキは覗き込んで、「大丈夫? トイレ行く?」とわざとらしく言った。連れていってあげなよとアイ。そうだねと周りもあとを押す。行こうかと手を引かれるままにメリーの足が浮いて、閉じている唇がきゅっと持ち上がり、歪んだ。
 連れ出されながら流してきた視線は、助けてと叫んでいるように見えた。
 立ち上がろうとした肩を掴まれて、ソファに尻をつけた。
「心配しなくても大丈夫よ、それよりさ、もっと飲もう飲もう」
 なにが大丈夫なんだ、余計なことを言い出して、自分にとって都合がいい状況を作りたかっただけじゃないか、この阿婆擦れめ。
 ねえ話そうよ。なにをよ、そっちこそいい加減に離せ。
 レンちゃんのこと知りたいなぁ。私は教えたくないし、知りたくもない。
「ほらほら、バーに来たんだから飲まなきゃ意味ないでしょ」
「そう、そうですよね」
 少なくなっていたグラスを空けて、次を求めて差し出した。そんなに飲ませたいのなら付き合ってやろう、注ぎ落ちるグラスを僅かに振り、液体は私のスカートを濡らした。
「やだ、ごめんなさい、今拭くわね」
「いいですよ別に、酔っちゃった私の所為ですから。弱いのにあおり過ぎたみたいなので、少し離れますね」
 引き止めようとするアイの制止を振り解き、席を飛び出した。早歩きでカウンターを横切り、L字コーナーを曲がって通路が見えたら、足は赤色の絨毯を蹴っていた。
 メリー、メリー、メリー!
 薄暗さに浮かぶ金色の把手を掴んだ時、分厚い扉から、僅かな悲鳴が聞こえた。
「メリー!」
 扉を押し開けた先に、シノザキに抱きつかれているメリーが、目に涙を溜めていた。踏み込んで、ショルダーバッグを思い切り振り抜いた。
 顔面に当たって怯んだシノザキがメリーから離れる。殴った際に消臭スプレーが床に転がって、咄嗟に手に取った。
「やああぁああ!」
 冷たさが目に染みたのか、催涙スプレーと勘違いしてくれたのか、シノザキは大袈裟に叫びながら転がった。私は飲み差しだったペットボトルを投げつけてから、メリーの手を引っ張った。
 通路を走り抜ける間際にふざけんなと届いた喚きなんか知ったこっちゃない。切れそうな息も破裂しそうな鼓動も構っている余裕なんてなかった。店を飛び出して、来た道を全速力で駆け上がり地下から抜け出した。
 外に出てからはがむしゃらに走った。赤に変わったばかりの信号も無視して、ヘッドライトが体を眩しく照らそうと、クラクションが鼓膜をつんざいてきても、強く掴んだ右手は離さない。
 途中からどこに向かっているのかもわからなかった。隠れるために狭い路地に入っても、暗闇の先からシノザキが追ってきそうな気がして、虫みたいに光源を求めた。
 力を入れて握っていた腕が重くなって、足を止めた。いつの間にかラブホ街の近くまで来ていて、息を切らすメリーはその場にへたり込んでしまう。
 膝に手を置いて屈んでしまうほど、私もへとへとだった。震えている肩を抱く姿に「大丈夫?」と声を投げて、手を差し出した。被せられた白い手を引っ張ろうとすると、いきなり肩を揺らしはじめて、メリーは笑いだした。瞳からは、涙がこぼれている。
 人が心配してやってるのに、なにがおかしくて笑うのだろうかこの子は。立ち上がってからも続けて、一頻り感情を出しきったのか、やがて笑うのをやめた。
「ああ、怖かった」
 襲われたのだ、当たり前だろう。指で目元を拭ってから、ありがとうと言われた。
「ちゃんと拒んでよ」
「うん、ごめんね」
「なくしちゃった物とか、ない?」
「大丈夫、咄嗟に手で避けたから」
「そうじゃないってば」
 貞操を守れたのはまあ、よかった。「あっ」と言って空を見上げるメリーは、手のひらを広げた。雨だ。
「傘、忘れて来ちゃったね」
「本降りになる前に帰ればいいよ」
「バッジもそのままね。ブラックリスト行きかしら」
「なに言ってんのよ、未練あるの?」
「まさか」
 アスファルトに触れた部分を軽く払うメリーは、辺りに首を振り、コンビニないねと呟いてから、帰ろっかと継いだ。
 少し赤くなっていた肌だけど、向けられる微笑みは、いつも見ている柔らかさを取り戻していた。強くなりはじめる雨が嫌な記憶を洗い流してくれる気がして、星も見えなくなった夜を振り切って走るのは、悪くないように思えた。

      3

 雨に濡れる前にだなんて考えが通じるほど、気候というものは優しくなくて、走り出してすぐに土砂降りとなった雨は容赦なく体を打ってくる。弁当屋のビニールテントに避難して冷たさから逃れた。雨で埋め尽くされる視界は白むほど激しくて、背後の明かりに照らされた雨粒は、風にあおられて波打っていた。
 服も帽子も靴の中までびしょ濡れだ。ブランデーの汚れが取れるのはありがたいけれど、肌に張りつくシャツの感覚はやっぱり好きじゃなて、思いの外冷たくなる空気に腕を抱えた。
 雨はやむはずないとわかっているのに、駅まで走る気力が今はない。メリーも同じようだった。寒そうに脇を締めている姿は、雨のおかげか見る人はいない。ふわりとしていたワンピースは水を吸い込んで、体の形をくっきりと浮かび上がらせながら、しわを寄せている。通り過ぎていく人は皆足早で、傘を差している人もいたけれど、腰元辺りまでが色が染みている。
 月も星も見えないものだから、振り返って時計を見た。時刻は九時十分を過ぎたところで、終電には十分間に合いそうだと安心した。
 不意に、突き刺さる視線に気付いた。客足が途絶えた所為でやることもないのだろう。三十代くらいの男の店員が向けている目つきは大変そうだなぁなんて同情じゃなくって、下着の透けた背中を視姦しているからなのだと遅れてわかった。嫌な奴だ。
 張られているポスターの陰に隠れるようと詰めて、メリーの体を押した。濡れた服越しに触れる体は多分、お互いが冷たったと思う。メリーはくしゃみをして、口元で合わせた手に息を吹きかけて擦った。
 そっと伸ばして握ってみると、私なんかよりずっと冷えていて、「大丈夫?」と声をかけた。平気と返してくる声は強がりだろう。このままじゃ風邪を引かせてしまう、どこか、暖を取れる場所はなかろうか。できればシャワーを浴びれて着替えも済ませれるような。
「あっ」
 ビルの陰から覗かせてる明かりは暖炉のように淡く光っていて、近付きたいと思う本能を誘うには十分だった。メリーの方をちらと見る。
 あんなことが起きてからだから、ホテルなんて、多分行きたくはないと思う、けど、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。メリーの腕を掴み、不思議そうに見つめてくる視線を、雨でぼやけているライトに向けさせるよう指差した。
「ダッシュで行こう」
 走り出して、驚きの声は上がったけれど、拒否の言葉は聞こえなかった。逃れていた雨は時間を置いてから浴びると一層冷たく感じてしまい、プールに飛び込む前のシャワーをなぜか思い出した。少し離れたところで飛沫の巻き上がる音が聞こえる。
 ホテル街に続いている道に人の影はなくて、水の溜まった靴をガポガポと鳴らしているのは私達だけだ。街路を抜けた先に電飾の煌めきが広がり、視界を明るくした。
 ここにも人はいない、部屋が埋まっていないことを祈りながら、近くのホテルに駆け込んだ。
 ロビーまで来ると雨の激しさもそれほどうるさくはなくって、心配していた部屋の方も、目をやった客室パネルは幾つも光っていた。
 一番空いている三階の部屋を選び、レシートと鍵を取って、エレベーターに乗り込んだ。鏡に映った格好はまあ酷いもので、チェックインを済ますまでに他の利用客と鉢合わせしないことを願った。三階に着いて開いた扉の向こうは、幾つかある照明が薄暗く廊下を照らしていて、灰色の絨毯に黒い跡をつけながら、305号室へと進んだ。
 室内照明は廊下と変わらない感じだったが、ベッドサイドは少し明るめだった。多分調節はできるだろうけど、今は体に纏う冷たさをなんとかしたかった。
「お風呂、先に使っていいから」
 ネクタイを解き、へばりつくシャツを脱いだ。もうちょっと遠慮くらいしなさいよねと言ってくるメリーだけど、着替える場所なんかに拘った所為で風邪を引きでもしたら、それこそ間抜けすぎる。
 一応の恥じらいは残っているので、下着はバスローブを着てから脱いだ。浴室からシャワーの音が聞こえてくる。自動課金式の自販機からホット珈琲を選び、中身を満たした紙コップを取り出して、ベッドに腰かけた。珈琲の温かさに息をつきながら、部屋を見渡した。
 テレビや小さめの冷蔵庫だけじゃなく、電子レンジまで置いてあって、「意外と便利なんだな」だなんて初めて入ってみた感想を呟いてしまう。
 珈琲メーカーを見つけたけど、使う勇気はないから別によかった。お気に入りの帽子は脱衣所のタオルかけに引っかけたが乾くだろうか。
 服もそうだ、ハンガーも引っかける場所も見当たらなかったから、脱ぎ捨てたまま。閉じているカーテンの向こうからは路面を打ちつけている雨の音が聞こえてくる。
 ついた手が沈んでいく柔らかさに、落ち着いたはずの心が、胸が、僅かに反応を示した。
「なに考えてんだか」
 ぬるくなりつつある珈琲を一気に飲み干してしまい、生温かい息をついた。一夜を過ごすことに今さらなんの抵抗があるだろう。一緒のベッドで寝るだけで、メリーは、レズではないのだ。
 いつの間にか聞こえなくなっていたシャワーの代わりに、タオルを体に当てている音が聞こえて、次は私の番なのだと立ち上がり紙コップを捨てた。
 脱衣所の角からバスローブ姿のメリーが現れて、濡れた髪にタオルを押し当てながら、空いたよと言う。
「ドライヤー、そこにあるから」
「ありがとう」
 脱衣所に向かいバスローブと下着を脱いで、早く浴びたいと入り込んだ浴室の折れ戸を閉めた。降り注ぐ熱いシャワーが奥まで入り込んできて冷たく固まった髪を解かしてくれる。
 僅かに残るシャンプーのにおいが、上ってくる湯気に運ばれて鼻先を擽った。どうせ今日は帰れない。添い寝していて「臭い」とか言われたくないから、ディスペンサーを押した。血の巡りがよくなったのを感じた頃に、レバーを閉めた。
 浴室から出ると脱ぎっぱなしだった服がなかった。髪を乾かしている音がまだ続いていた部屋に戻ると、メリーはカーテンの一部を外したフックに引っかけた服へ、温風を吹き当てていた。私に気付いて、服に浴びせていた騒音がやむ。
 はいと言って、ドライヤーを渡される。
「乾くかな」
「できるだけ水気は取っておいたけど、しわは諦めた方がいいね」
 寄れたシャツをぴんと伸ばしてから、メリーは自販機でココアを選んだ。用意されているマグカップやポッドを使うのは私と同じで抵抗があるらしい。
 隣に腰を下ろすメリーはなにも言わず、ただ静かに紙コップを傾けるばかりで、私の方も、これと言って話すことが浮かばなかった。髪が乾くまでの間、私達に会話はなかったけれど、スイッチを切ると同時にメリーが「ねえ」と話しかけてきた。
 完全に乾ききっていない長髪は湿り気を帯びていたから、「なに?」と返しながらドライヤーを渡す。
「怒ってない?」
「なにを」
「びしょ濡れになっちゃったから」
「端折りすぎ」
「ごめん」
 付き合わせた結果のことなら別に気にしてない。一つ聞きたいことがあるとすれば、シノザキとのことだった。面識はあった様子だったのに、傍目に映る表情からはとてもじゃないけど、よく思ってはいない様子だったから。
 メリーにそのことを告げて、なぜ、それでもあそこに行ったのかを訊ねた。沈黙の気まずさは雨の音に紛れて感じない。メリーは、どうなんだろう。
 堅く閉ざされていた唇が息を吸い込んで、うつむき気味の横顔が発した言葉は、「悩んでいたの」だった。私は次の言葉が継がれるのを待つ。
「付け入られたんだと思うわ」
 シノザキと知り合ったのは書店だそう。心理学の本の参考にしようと、あの自伝本を手にした時に声をかけられたとメリーは話す。殆どナンパに近かったみたいだ。
 レズに興味があるのか、君もレズか、へえ違うんだ私はレズなんだ、心理学に興味があるなら体験談でも聞かない、お茶しながら。
 聞かされる内容にあの気取った口調が頭の中で再生されて、静まっていた怒りが火山のように活動を再開しそうだった。
 同時に、違う疑問も浮かんできた。だって、胡散臭い話じゃないか。
「どうして簡単について行ったの」
 私よりは絶対にガードが固いメリーのことだ、人気の芸能人やアイドルに誘われたって乗らないだろう。なぜシノザキの誘いは断らなかったのか、探りはじめると止まらない思考はすぐ嫌な答えに辿り着いてしまって、私はそれを否定して欲しくて「なんで?」と求めた。
 もし同性愛者やバイが理由なら言いづらいのもわかるけど、私は、はっきりさせたい。もしメリーがそっち側の人間で、例え私に感情を向けていたとしても。
 再び動き出した口が語ったのはまず経緯からで、下心も見え見えだったシノザキが、別れ際にバーを紹介してくれたとのことだった。会員証に見えていたのは紹介状で、一見が入るために必要な店の名刺らしい。
 嫌われるかもしれないと、か細い声で言った。
「大丈夫だよ」
「本当?」
「話して」
 隣に並んでシーツにしわを作っている手は、触れようとしたら膝の上に逃げてしまう。
「蓮子は、自分の心を疑ったことってある?」
 抽象的過ぎてわからなかった言葉は、心を性別に言い直されて、再度確かめられた。私は自分が女であることに疑問を感じたこともないし、男の人だって、ちゃんと好きだ。
 それが、メリーの悩みなの?
 こぼれてしまいそうになる思いを抑えて、ないよ、と答えた。
「私ね、自分がわからないの」
 女であることに疑問なんてなくて、男の体に憧れたりもしない、なのに、同性を好きになってしまった。蟠りを晴らしたくて、でも手探りにも限界があって、囁かれた誘惑に負けてしまったと言う。
 告白の終わりはどこだろう。耳を傾ける中で私は、別のことを考えていた。好意を抱いている相手は私なのだろうか、そう思うのは勝手な決めつけじゃないのか、被せようとした手が避けたのは、私が知らない、あるいは知っている相手がいるからじゃないのか。
 だからどうだと言うのだろう。気にしても仕様がないことを。
「ねえ、蓮子はどう思う、こんな私のこと」
「別に、そういう人もいるんだなってくらいだけど、メリーは、どうしたいの」
「蓮子が好きなの」
 好きって、それは。
「じゃあ、やっぱり同性愛か、バイじゃないの」
「違う、そんな簡単に割り切れる感情なら、悩んでなんかいない」
 精神科医の真似事なんて私にはできない。好きって感情が異性に向くならそれは正常で、同性に向くなら一般的にはレズで、今は私に向いているだけだと指摘すれば、バイの可能性だってある。カテゴリに当てはまらない状態の好意は、友人や付き合い上の感情でしかないのではなかろうか。
 レズだとは認めたくなかった、けど分析すればするほど自分がそっち側に分類されてしまうのだと続けるメリーは、肩を抱きながら、声を震えさせていた。
「ねえ言って、気持ち悪いって、おかしいって」
 苦しみから解放してやれる言葉は浮かばない。でも、思ってもいないことを口できるほど、幻滅もしていなければ嫌悪だって抱いちゃいない。
「気持ち悪くなんてないよ。好きになったのが、たまたま私だっただけなんでしょ?」
「憧れなんかじゃないのよ、性欲の対象として見てるのよ、私、蓮子でしたんだから、ねえ、どうして否定しないの?」
「形としては結構最悪なんだけどさ、これって告白でしょ。私にだって、話させてよ」
 わかったことがある。最初はバーでシノザキに絡まれていた時で、次は今し方に触れようとした手を避けられたこと。伝えたら、メリーは怒るかもしれない。涙で目を腫らすほどつらいことなのに、私は、自分の気持ちに戸惑ってすらいないのだから。
「私ね、嫉妬してたんだと思う」
 シノザキが肩に腕を回したりして、必要以上に密着して、さらさらの毛先で遊んでいたこと。それから、意中の相手が私じゃない誰かで、その誰かにも嫉妬していた。励まそうとした手を避けられて、内心残念に思っていたこと。
 じゃあレズかバイかって聞かれたらだけど、それはわからない。アイに胸を押し当てられてても不快でしかなかったし、そう考えたら、どちらかと言えば多分バイ寄りだろう。
 付き合ってもいないのに嫉妬してしまうのは私が、私もメリーのことが好きだからなんだ。
「それって、ただの友達以上恋人未満の感情じゃないの?」
「じゃあレズですバイですって認めてからじゃないと嫌なんだ」
「違うわ。そんな簡単に割り切れるのが、信じられないだけよ」
 またうつむいた横顔は、どうしたら納得してくれるのだろう。バスローブに包まれた華奢な肩を掴んだのはきっと無意識で、後先も考えず、桃色の果実に唇を重ねていた。
 抵抗はなくって、押しつけただけのキスなのに、息が熱くなっているのがわかった。長く感じていた時間は、短かったのだと思う。ゆっくりと唇を離して、赤く染まっていた頬に手を伸ばし、伝っている涙を拭った。
「どっちかに分けるなんて、しなくてもいいんじゃないかな」
 レズだから、近くにいるからだなんて理由で求めたんじゃない。他の誰でもないメリーだから、私は受け入れられる。
 胸の鼓動が収まらなくて押し倒してしまったメリーに、「いいよね」と聞いた。目を閉じ、頷いたのを見届けてから、唇に吸いついた。

      *

 バスローブ越しなのに、重ねている体に柔らかさが伝わってくる。乾ききっていないからか、髪からはシャンプーの香りを強く感じた。吸い返してくる度にココアの甘ったるさを肺に入れた。メリーの鼻腔に届くのは、珈琲味の吐息だろうか。体に回していた手は肌のぬくもりを求めるように、バスローブの隙間にねじ込んで、向こうの手もはだけさせるように進入してくる。お互い前が露わになって、恥ずかしい気持ちは同じなはずなのに、私もメリーも、唇の食み合いをやめられなかった。
 心臓が痛いほどに跳ねている。

 ドゥドゥドゥドゥドゥドゥルルン、ドゥルンドゥルンドゥルン、ドゥドゥドゥルン、ドゥルウウウウウウウウン!

 私よりも大きい胸は音を拾う面積も広いから、きっとこのドゥルドゥルはばれている。同じ気持ちでいてくれたらいいなと思っても、自分の鼓動が邪魔して聞こえやしなくって、代わりの確証が欲しくて舌を伸ばした。
 応えるように絡んできた舌はやっぱりココアの残香があって、ちょっぴり甘かった。くぐもる吐息と声は可愛くて、興奮を覚えている私は、やっぱりバイなんじゃないかと思った。
 傍目から眺めているだけだった関係を、今越えようとしている。あっち側こっち側なんて言い方で分け隔てていた壁によじ登り、覗いているだけじゃ物足りなくなって、ブロック塀のかさ木に足をかけている。口内を満たす甘さは危なげな薬かアルコールみたいで、意識がとろけていく。もっと、もっと欲しい。
 唾液の交換をやめて、耳元に舌を這わせた。メリーの声と体が跳ねる。うっすらと汗ばむ首筋に口付けてから、ゆっくりと鎖骨にまで舌を下ろした。
 首に回されている腕がぎゅっと押さえてきて、刺激を与えてやる度に震えを起こしている。左手で胸を揉みながら、体の位置を下げていく。柔らかいお腹に立てた舌先で小さく円を描いた。頭に被せてくる手に力はない。痙攣するみたいにへこむお腹は、私だけの物だ。私の舌で、感じているんだ。
 空いている右手を左膝の下に潜り込ませて持ち上げた。柔らかさを備えた足は簡単に上がり、上体を起こした肩にふくらはぎを乗せる。心地いい重さだった。
 足首を握って、顔を近付ける。
「やだ、舐めないでよ、そんなとこ……」
「メリーの足裏、柔らかくて綺麗」
 閉じようとする足先に無理やり舌を滑り込ませて、汗の味と反応を楽しんだ。乳房に被せていた左手の指の隙間から、頭を覗かせている乳首が主張しはじめる。足への愛撫をやめて、二つの頂点をいじくった。
 指の腹で軽く押し潰したり、指の側面で挟んでから、少しだけ引っ張ったり。空いている方の乳首は、赤ちゃんにでもなったつもりで味わわせてもらう。喘ぎ声を抑えようとする左手が口元に添えられるのを、乳首を攻めながら上目で眺めた。
 どれだけ唇を固く閉ざそうと、色っぽい吐息はくぐもりながら鼻から出ていって、私の鼓膜を心地よく震わせてくれる。感じてくれているのが嬉しい。
 もっと大きなリアクションが欲しくって、濡れそぼる花びらに手を伸ばした。
「だ、だめ、ああっ」
 熱い蜜を吐き出している膣は、沈めた指先を待ち望んでいたかのように締めつけてくる。言葉とは正反対の反応を見せる下半身は、もっと頂戴と言わんばかりに、涎を垂らしている。どちらが本音かは比べるまでもなかった。
 一本でもきつい膣の中に中指を差し込んで、ぐりぐりと掻き回してやる。粘着質な音が結合部から響いて、入りきっていない指の根本までが熱い蜜で塗れた。
 身を捻りながら嫌だのやめてだのと喘ぐものだから、動きを止めて、指を引っこ抜いた。
 頬を朱色に染めあげているメリーは、お預けを食らった犬みたいな目で見つめてくる。肩を上下させながら乱れている息は、休ませているのに落ち着く気配はなかった。どうしたの、嫌なんでしょ、やめてあげたのに、どうして切なそうな目をしているの?
 見つめ続けられるのが恥ずかしかったのか、視線が横に外れて、かと思えばまたこちらに向いたりとを繰り返される。
 本当は、欲しいんじゃないの?
 囁きに首を横に振られたので、一つ困らせてやりたくなった。
「私にされるのが嫌なら、自分でしてるとこ、見せて」
 したんでしょ、私で。
「意地悪……」
 涙ぐむ瞳を逸らさずに、メリーは、小さく「して」と呟いた。私は恥部に顔を近付けて、舌を当てた。指で広げるひだは汚れ一つない神聖さで、ひくひくと内側に窄もうとする動きも、舐め上げる膣口の味だって、知っているのは私だけだ。
 他の誰にも見せたくない、触れさせたくない、メリーは、私の物。だから、メリーにとっての私も、そうであって欲しかった。
 舐めるのをやめて、起こした体をまた重ねさせる。
「ああ、メリィ……」
 私の恥部も対外に濡れていて、そこに誘ったメリーの左手を、細い指先を、膣内に埋没させた。動きはじめた指に犯されている悦びを感じた。お互いの手がいやらしく蠢いて、指を呑み込んでいる口は伸縮を繰り返しながら、シーツを濡らしていく。
 自由になっている左膝を立てて、もうだめとメリーが言う。私も頭がおかしくなりそうだった。火照る体の奥で、快感が渦巻きながらせり上がってきている。背中に回される片腕に力が入って、喉を閉塞させるような声で、メリーは叫んだ。立てている膝が内側に寄ってきて、恥部を攻める前腕に押し当たる。
 先にイクなんて、ずるいよメリー。
 短く息を吐き漏らす度に柔らかい乳房が波打って、視覚的に興奮を覚えていても、膣にある指先は動いてなんかくれない。
 イキたくて、イカされたくて、だらりと伸ばされている右足の太股に、隆起しはじめていたクリトリスを押しつけた。机の角でするのとは違った感覚だったけれど、柔らかい肉質の奥で、硬直する筋肉の動きが時たま震えるように振動するものだから、思いのほかに気持ちがよかった。
 ああメリー、私もイク、イッちゃうの、メリーの体で自慰しながらイキそうになってるの、いいよね、メリー!
 腹奥に溜まる熱が弾ける直前に、メリーの手を引き寄せた。先を越された寂しさを慰める形で達するのが嫌だったんだと思う。
 結局は自慰でしかないけれど、メリーの手でイけたという事実が欲しかった。指先がクリトリスに触れてすぐに、私にも限界が訪れた。
 恥ずかしくなるような声を出して、広がっていく快感の波に全身を震えさせた。
 肩を掴んでいた手から力が抜けて、まだ上下に揺れている胸へと滑った。折角お風呂に入ったというのに、ベッドの上は汗と行為のにおいで、つんとするようだった。
 気持ちよかったと声をかけられて、うんと返した。そうと言ったあとに続く言葉はなくて、落ち着きはじめた呼吸ばかりが耳に届いた。
 寝たのかな、そう思っていると、不意に髪を撫でられた。重なっていた状態の体を動かして、二人して寝返りを打った。向かい合う体を密着させて抱き合い、メリーが温かいものだから、もぞもぞと体を下に動かして、胸元に顔をうずめた。
 囁かれる甘えんぼはとても穏やかで、まるでお母さんみたいだと思った。
 メリーの鼓動が聞こえる。私の鼓動はどうだろう。顔をうずめている私には、自分の鼓動もしっかりと聞こえていた。私の音も、聞こえていたら、いいな。
 耳に響く、二人分のドゥルンを子守歌にしながら、誘われるままに意識を沈めさせた。

      4

 鼻腔を刺激する香りが、暗い底から意識を引っ張り上げてきて、体の気だるさから結構な時間を眠っていたのだと知った。「お目覚め?」と聞こえてきた方に目を向けると、ベッドの縁に腰かけるメリーが、紙コップ片手に微笑んでいる。
 壁際の時計を見ると、針は朝の九時を指していて、一人着替えを済ませていたメリーは、素っ裸の私を横目にモーニング珈琲と洒落込んでいるのだ。なんて酷い奴なんだろうか。シャワー浴びておいでと珈琲を傾ける横顔に、言われなくともそうするよと、少し拗ねた口調で返した。
 汗のべたつきを洗い落とし、お風呂から出ると、干していた服と下着が畳まれていた。下着は気にならなかったけれど、シャツとスカートのよれは鏡越しに見ていて情けなくなった。
 メインルームに戻るとメリーは本を読んでいた。隣に腰かけて、ドライヤーのスイッチを入れる。手の中に収まっていたのは、私が借りてきた、あの本だった。
 ちょっとだけ声を張り、持ってきたんだと聞いた。
「うん、濡れてなくて、よかったわ」
 思い返せば、やたらと大事そうに鞄を庇っていた。ぱらぱらと頁をめくるので、「どんな物語?」とまた聞いてみる。主人公は少女だそうで、タイトルは今のところ、まったくと言っていいほどに関係がないそうだ。
 センセーナショリズムな内容だと言われたけれど、このタイトルのどこにそんなものがあるとわかるだろうか。己の居場所を探す旅に出た少女のことが、まるで昨日までの自分みたいだと、メリーは笑う。
「私はもう、居場所を見つけられたから」
「今さらじゃない、それ」
「まあね」
 楽しそうに文字を追う横顔には、昨日に見せていた暗さは見当たらない。本の内容がふと気になって、程々に乾いた髪にドライヤーを切ってから、開いている頁を覗き込んでみた。
「……やっぱりこの作者おかしいわ。だって、チュドンチュドンなんて心臓の擬音、変だもの」
「そうかしら?」
 変な感性だとは言わないでおこう。出る前に一杯だけモーニングを楽しんでから、行こっかと声をかけた。うんと返してくる微笑みは眩しくて、女同士なのに、彼女になるのかなぁなんて考えが浮かんでしまった。
 宿泊料金を精算して、ホテルから出た。昼間のラブホ街は嘘みたいに静まり返っていて、私達大学生がホテルから吐き出される姿は、やはり場違いだろう。それも女同士で。
「こんなところ見られたら、もうこの辺歩けないわ」
「あら、やっぱり私とじゃ嫌だって言うの?」
「親にばれてもいいんだ?」
「困るに決まってるじゃない」
「じゃあ、さっさと離れよ」
 肌を重ねる一夜が明けたのに、お互いがもういつも通りの振る舞いだ。自然と伸びた手が腕を掴んで、焦る必要なんてないのに、足は勝手に走り出していた。駅までの道のりの中、追ってくる影はもういない。
 大学に着いたら、イノウエ達にまたカップルだなんて茶化されるだろうか。あいつ等は確かにレズカップルだけど、私達は多分少し違っていて、レズでもバイでもない、微妙な関係だ。
 傍目から見ればそんなのわからないだろうけれど、他人からの理解なんて得られなくてもいい、だって、人間だもの。
 友達と恋人の境界をふらふらと行き来する間柄は、いつまで続くだろうか。駆け込んだ電車に揺られながら、ちょっとだけ変化した大学生活に期待を膨らませて、私の胸は、躍るように、ドゥルンと跳ねた。
このあとがきを見た者はねちょこん終了後「んんwwwイキますぞwww」と言いながら布団から飛び起きる。
作品情報
作品集:
最新
投稿日時:
2014/05/28 21:26:27
更新日時:
2014/07/02 20:59:52
評価:
6/6
POINT:
43
Rate:
1.94
1. 7 グランドトライン ■2014/06/17 00:44:37
ネタタイトルに釣られて読んでみたら、ただの蓮メリだった。作者は間違いなく天才という名の変態だな。
(※褒め言葉です)

背景と日常の描写がとにかく事細かで、まさに都会に迷い込んだようなリアリティを感じました。
テーマもなかなか奥深く、考えながら腰を据えて読ませていただきました。
ただテーマの壁がちょっと考えないと分からない程度に隠されているように感じます。
あと個人的に序盤と終盤の蓮子の同性愛に関する考え方の変化が急すぎるような気もします。
それと一か所誤字を見つけました。

持っていいないから開けられない。
>持っていないから開けられない。

ですが、ビアンバーからの展開は盛り上がり、ネチョシーンも濃く官能的でした。
この2人、本当に桃色率高いわ。あと心臓音ドゥルンが面白い。

なお、このコメントを見た作者は「ドゥギュンドゥギュルル」と悶絶しながら裏話を書く。
2. 6 匿名 ■2014/06/22 16:46:33
基本点:1点
テーマ:1点(0〜3点)
エロさ:2点(0〜3点)
面白さ:2点(0〜3点)
一言感想:んんwwwイキますぞwww ……ごほん。なんてひどいタイトルだ(褒め言葉)しかし百合カップル率トップクラスの秘封で、こんなに現実的な考えが展開されるってなんか珍しいですな。 
3. 6 まっく ■2014/06/24 15:52:04
夢精したい
4. 5 ぱ。 ■2014/06/26 00:47:45
ドゥルン。
何かモチーフがあるのかもしれないと疑うくらい当然のように入り込むエンジン音に始終思考を乱されるのが悔しい。
そのくせ丁寧に描かれており、特に秘封倶楽部の大学内の友人関係を自然に嫌味なく描けるのは素晴らしい。
タイトルとドゥルルとあとがきがどうしてこうなったのか気になって気になって昼も眠れます。
5. 9 toroiya ■2014/06/27 20:54:00
なぜその心音なんだ……どうやってタイトルのオチを付けるつもりなんだ……
と思っていたら作中でツッコミが入って思わず吹き出しました。

日常生活の描写が的確で、雰囲気を感じる事ができました。
とてもよかったと思います。
6. 10 通りすがりのGさん ■2014/06/27 23:59:51
全くもってひどい呪いをかけてくれたものですね
こんなとんでもないSSにはこの点数がお似合いですぞwwww
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